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アビリタと中央都市・アルテナを繋ぐ巨大な森。
油断すれば間違いなく迷ってしまうだろう。
無言で前を行くパートナーに不安を覚えながらも、何とかここまでついてきた。

いつもの、へらへら愛想だけはいい顔はどこへやら。
院長室を出てからのイルは本当に機嫌が悪い。
普段はあまり感情を表に出さないが、鈍いカリンにも分かるほどに殺気立っている。
院長室でのやり取りからサカキとは折り合いが悪そうだ。
それでも無理して笑うところが彼らしいが、さすがに我慢ならない一言があったらしい。
『今回の指定物……何よりお前が適任だからな』。
院長室を出る際に言われてからというもの、無言を貫き通している。

まだ昼間だというのに、それが嘘のように薄暗い。
鴉の鳴き声も不気味で、できることなら隣を歩いてもらいたいのだが。

「ね、ねぇイル、どうして怒ってるの……?」
「怒る? 僕が? ……何で?」

いつもと変わらない落ち着いた声音だ。
けれど、彼はこちらを振り返ろうとしない。
それが怒りを象徴している。

静寂に包まれた森で、唯一聞こえるのは地を踏む靴音。
規則正しい淡々とした音が余計に不安を増幅させる。

と、ここで急にイルが立ち止まった。
不思議そうにまじまじと見つめてくる彼に、少しだけ心が落ち着いた。
いつものイルだ、そう思えて。

「どうしたのカリンちゃん。……怖い?」

イルに言われて初めて自分が震えていることに気付いた。
無意識のうちに彼の制服の裾まで掴んでいたらしい。
羞恥に耳まで赤くなってしまう。
そんなカリンに、彼はおかしそうにくすくす笑った。

「君には敵わないなぁ。ちょーっと機嫌悪かったんだけど、もうどうでもいい感じかな」
「そ、そうなの?」
「うん、そのなのー」

口調を真似てけらけら。
普段なら弁慶に一発蹴りをお見舞いしてやるところなのだが、今はそんな気分になれなかった。
あのカリンが溜息をつくだけに終わったことが不服らしい。
頬を膨らませて不満を漏らし始めた。

「何それカリンちゃーん。言い返さないのー?」
「……もういい歳なんだから子供みたいな顔しないでよ」

人というのは単純な生き物だ。
恐怖を感じるといつもより声が大きくなる。
さらに、誰かに当り散らしたくなるのだ。
言いすぎたかな、と一回りも二回りも高い位置にある顔を覗き見る。
その表情を見た瞬間、身体が凍り付いたように動かなくなった。

滲み出る殺気と冷淡な瞳。
それも、先程の何十倍という凄まじさだ。
カリンは膝を崩し、地面にへたり込んでしまった。
とても立っていられない。
もし学院側が自分を消そうとするなら、必ず彼を使ってくる。
何故か、そう思ってしまった。

「そういうの、君らしくないよカリンちゃん」
「ごめ、なさ……」
「彼女を見ているようで……笑えない」
「彼女……?」

ふいに差し出された手。
それが何を意味するのかは分かっている。
怒っていても、手を引いて立たせてくれようとする……そんな優しさが彼にはあるのだと思った。
こちらも手を出し触れようとした途端、彼は手を引っ込めてしまった。
それも、慌てた様子で。

ごめんね――。
苦笑いで謝られても一切伝わらないではないか。
もどかしいが、今はそんなことを言い合っている場合ではない。
気を引き締め前を見据える。

四方八方どこを見ても、木、木、木。
こうも同じ景色ばかりでは気も滅入る。
早く指定物を見つけて帰りたい……それが全てだ。

自分の溜息に次いで聞こえたのは咆哮。
奥に進めば進むほど危険が増すのは承知の上だが、まさかこんな真昼間から行動するとは思わなかった。

このオーガ・フォレストは森閑境(しんかんきょう)とも呼ばれ、外界から遮断されている。
地獄に最も近い場所と謳われていた時代もあったようだ。
そんな場所に昼も夜もない、そういうことだろう。
震える手でショルダーバッグの中を漁った。

ここへ来る前に指導員から渡されたものは三つ。
傷薬と包帯、そして小型ナイフだ。
危険区域に生徒を送り込むというのに、この安直ぶりはいただけない。
イル曰く、薬と包帯まで用意してもらえるのは期待されている証拠、らしいが、それも嘘くさい。
どうぞ勝手に死んでくださいよ、と言われているような気がしてならない。

小型ナイフを取り出して構える。
当然こんなものを持ったのは初めてだ。
手足は震え、心臓が煩く音を刻む。
そんなカリンの様子を見かねてか、イルが前に立った。
手で軽く刃を押し、しまうようにと促す。

「君は下がってて」
「で、でも……」
「いいからいいから。……君は何もしなくていい、そのままでいればいいよ」
「それ、どういう…………っ!?」

突風が吹き、反射的に目を閉じた。
目を開けたと同時、鋭い咆哮が耳朶を揺らす。
目を凝らすと、巨大な何かが見えた。
壺のような胴体からいくつもの毒々しい色の花が顔を出している様子から、植物らしいことは分かる。

イルはすでに走り出していた。
腰の剣を抜き、この状況を楽しむかのような余裕の表情。
次の瞬間、その物体の天辺、穴が開いた部分から何かが飛び出した。

「ひっ……!」

細長い、蔓のようなものが地面を這う。
何十ものそれが、うねうねと気持ち悪い動きで迫ってくる。
そのうちの一本がカリンの足に巻きつく。
何度も足を動かずが、その度きつくなった。

「カリンちゃん、早くそいつから離れて!」
「でも、でもでもでも! 全然離れないよっ……!」
「待って、すぐ行くから!」

剣で蔓を引き裂いていく。
斬る度に分裂する、これではきりがない。
イルは剣を鞘に納め、右手を見た。

これは元々肉食だった植物が突然変異を起こして巨大化したものだ。
その蔓の先端部の鋭い針には猛毒性があり、大変危険。
いつ刺されてもおかしくない状況だが、彼女はそれを知らない。
伝えるべきか否か迷っていると、カリンが小さな呻き声を漏らした。

「っ……たい……!」

カリンが足を押さえて蹲るのと彼女の足から蔓が離れていくのは同時のことだった。

(刺されたか……)

イルは慌てるどころか、逆に笑ってみせる。
それが伝わったのか、魔物は忌々しそうに啼いた。

「カリンちゃん、事が済むまで目を瞑っていてくれるかな?」
「ど、して……?」
「いいね? 目を開けたら……お仕置き、だよ」

お仕置きは嫌だ。
ぎゅっと目を瞑り、事の終わりを待つ。

何も見えず聞こえず感じないというのは恐ろしいものだ。
そして、恐怖の次には興味が顔を出す。
少しだけなら……。
イルの言い付けを破り、薄く目を開いた。

本当に少しのつもりだったのだが、視界に現れた『金』に完全に目を開いてしまった。
美しく、儚く、恐ろしい色。
その色がイルの瞳を埋めていた。
冷笑、嘲笑、なんて言葉が似合いの表情で、彼は魔物と対峙する。

「心配しなくても楽ーっに眠らせてあげるよ」

普段通り茶目っ気のある口調だが、その瞳のせいで別人のように思えてしまう。
ヒューマンのものとは思えないほど浮世離れしている、そう思った。

魔物が雄叫びを上げ、我に返る。
そうだ、守られている場合じゃない。
ナイフを取り出し構えようとしたが、

「下がってなって言ってるでしょ」

彼がこちらを振り返ることなく、そう言ったから。
安心できると思った。
ナイフを下ろし、その広い背を見つめた。

イルの右手が蔓に触れた途端、魔物は動きを止めた。
しばらくすると小刻みに震え始め、激しく暴れる。
その様子を眺めながら、イルは薄く笑みを浮かべた。
哀れむように、嘲笑う。

「バイバイ」

左手を振りながら屈託のない笑顔を向ける。
その瞬間、魔物の身体が破裂した。
蒸発したといった方が正しいか。
今までふんぞり返っていたものが、突然、跡形もなく消える。
呆気にとられていると、イルがこちらにやってきた。
瞳は、金色に染まっている。

肩に手をかけられ、びくりと大袈裟に反応してしまった。
踏みしめた右足はそのままに、左足が後ろに下がっている。
何とか誤魔化そうと笑うが、腰が引けて思うように笑えない。

イルが、苦笑した。

「やっぱり君も、怯えるんだね」
「え……?」

切なげに瞳を揺らす。
その表情に驚き口を開けたままにしていると、ふはっ……とあの独特な笑いが聞こえた。
目に涙を溜めて笑い転げる様を見ていると、こちらも笑わなければならないのかと思ってしまう。
カリンもつられて『乾いた』笑みを零す。
その顔がツボに入ったのか、息ができないほど大笑いされた。
腹が立つ。
そうだ、この失礼極まりない態度をとるのがイルだ、さっきのは幻、これが正常。
と、失礼なことを考えながらも、一度抱いた不安はなかなか消えてくれない。

悪戯っぽく笑いながら謝罪する彼の瞳は、いつもと同じ薄い紫色に輝いていた。